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日本を代表する琳派とは? 美術の教科書では教えてくれない、謎と不思議に迫る

日本が誇る、伝統的な表現技法の1つに琳派があります。
桃山時代に起こり、近代から現代に向かって脈々と受け継がれてきた表現技法です。
しかし、琳派は面白いことに、本阿弥光悦や俵屋宗達が創始し、尾形光琳が発展させたと言われていますが、正統な後継者はいないと言われています。
日本が誇る琳派について、おさらいしていきましょう。

日本が誇る、伝統的な表現技法の1つに琳派があります。
桃山時代に起こり、近代から現代に向かって脈々と受け継がれてきた表現技法です。
しかし、琳派は本阿弥光悦俵屋宗達が創始し、尾形光琳が発展させたと言われていますが、正統な後継者はいないと言われています。
日本が誇る琳派について、おさらいしていきましょう。

2015年は琳派が起こって400年の節目


2015年は琳派が出来てから400年という節目の年。
琳派の祖の一人である本阿弥光悦が、時の将軍徳川家康より京都・鷹峯の地に光悦村を拓いたというものです。
それを以って、2015年に京都の官民が琳派誕生の起点として記念事業を推進したのでした。

琳派の起源と呼んでいいのか?議論は現在でも白熱する…

これを琳派の起源と呼べるかどうかは、現代に至っても議論が尽きないのです。
最初に創始したのは俵屋宗達と本阿弥光悦の2人であると言いましたが、光悦村には俵屋宗達は一切関係がありません。
そもそも俵屋宗達が、生まれも育ちも頭に必ず「おそらく」が付いて回るほど不明な点が多いことも大きな謎。

俵屋宗達《風神雷神図》

江戸時代中期に琳派を発展させた尾形光琳と尾形乾山の兄弟は、確かに京都出身。しかし光悦村との関係はよくわかっていません。
本阿弥光悦が死んだのは1637年、尾形光琳が生まれたのは1658年。二人の関係性は子弟と言うことができず、全くの他人なのです。

琳派は本当に継承されたのか?謎が謎を呼ぶ江戸時代

さらに頭の痛いことに、琳派は上方(京都や大阪)で栄えた表現技法。江戸、すなわち当時の日本の中心地で人気が出てくるまでは更に100年ほど時代が下ることになります。
ここの主人公は酒井抱一鈴木其一の2人です。
酒井抱一が生まれたのは1761年。尾形光琳が死ぬのが1716年なので、ここにも師弟関係は一切ありません。全くの他人です。特に酒井抱一は本阿弥光悦や琳派ではなく、芸術家としてのスタートは明らかに狩野派の一門です。

尾形光琳《紅白梅図》

あまりにも巨大な狩野派と尾形光琳の不思議な関係

そもそも1500年代~1900年代の日本の装飾技法の中心は狩野派。
狩野派は血族関係を主軸とした画家集団として世界的にほとんど例を見ないほどの繁栄を見せたいわゆる芸術家チーム。
この狩野派で学ばなければ当時は絵を描かせてもらえなかったと言われるほどの繁栄をします。
琳派を発展させた尾形光琳も、画家として活動を始める初期は狩野派を学んでいました。

琳派はどうして残ったのか

狩野派と琳派を隔てたものは何だったのか?
狩野派は伝統を重んじ琳派は個人を重んじたためでしょうか。
江戸の琳派人気の定着に大いに貢献した酒井抱一は、「尾形光琳を私淑します」。
自ら光琳を師として模範していくという、今でいうところの個人的な選択をしたのです。
それは、本阿弥光悦や俵屋宗達が生み出し、尾形光琳・乾山兄弟が発展させた表現技法を、酒井抱一という個性が注目しその才能が世の評価を決定づけたということになります。

琳派に眠る歴史の潮流は、決して簡単に追いかけることができません。
琳派は「私淑」という個人的選択に基づいて継承が行われてきたのでした。それは近現代の生き方と重なるところがあります。
まさに「私淑」こそが、芸術家たちが影響を受け惹かれ続ける理由であり、現代まで生き残ってきた理由でもあります。

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