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フィレンツェが生んだ破戒僧が描いた天使 フィリッポ・リッピ

イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館に収蔵されている、フィリッポ・リッピの「聖母子と二人の天使」。
修道院の僧が描いた「聖母子像」は海外でも有名ですが、フィリッポ・リッピの意外な素顔は知らないはず。
スキャンダルを起こしながらも、メディチ家に愛された彼の作品と素顔をご紹介します。

ウフィッツィ美術館(イタリア・フィレンツェ)

フィリッポ・リッピ、誕生とともに母を亡くし8才で修道院へ

フィリッポ・リッピは、フィレンツェの豪商メディチ家に愛された画家。
フィリッポが生まれると同時に母は産褥死し、フィリッポは兄とともに8才で修道院に入ります。正式に僧となったのは15歳の時。
しかしフィリッポ・リッピはまったく僧職に向かず、夜遊びが大好きで女性たちに言い寄ってばかりいたのだそうです。リッピの上司に当たる司祭たちは、リッピの僧職の不適合性を嘆いたものの、彼の人間性への洞察力の深さは認めていました。
これは「画家」としてのフィリッポ・リッピの特性でもあったのです。

50才のフィリッポ・リッピ、20才の尼僧を盗み出す

僧としての職務はともかく、画業は順調であったフィリッポ・リッピ。50才を迎えようとしていた1455年、プラートにあるサンタ・マルゲリータ教会でフレスコ画を制作していました。その教会付属の修道院に尼僧として在籍していたのが、当時20才であったルクレツィア・ブーティという女性でした。
彼女の美しさに惚れ込んだフィリッポ・リッピは、製作中の作品にルクレツィアをモデルにした女性像を描いたにとどまらず、ルクレツィアを誘拐して内縁関係を結んでしまうのです。30才も年上の僧に迫られたルクレツィアでしたが、彼女も貧しい家庭の事情から修道院に入れられたという経緯があり、むしろ喜んでフィリッポ・リッピに従いました。その際、ルクレツィアの妹のスピネッタやほかの修道女まで脱走を試みています。

メディチ家の当主がスキャンダルの火消し役に…

イタリア・フィレンツェの街並み


当時は、この事件は大スキャンダルとなりました。
ルクレツィアをのぞく女性たちは全員修道院に戻され、フィリッポ・リッピとルクレツィアだけは、当時のフィレンツェの実力者コジモ・ディ・メディチの恩情で修道院の外の世界で共に生きることを許されたのでした。コジモは
「たぐいまれなる才とは天からの贈り物であり、そのへんのロバ引きとは違うのだ」と言ったそうです。

弟子たちの手を一切借りずにフィリッポ・リッピが一人で描上げた「聖母子と二人の天使」

聖母子と二天使 1465年 ウフィツィ美術館(フィレンツェ)


フィリッポ・リッピの数多くの作品のなかでも最も有名なのが、フィレンツェのウフィッツィ美術館が所有する「聖母子と二人の天使」。この構図は、ボッティチェッリにも影響を与えたと言われ、ボッティチェッリも同タイトルの作品を残しています。
当時の作品は、マエストロと呼ばれる師匠と工房が抱える弟子たちの共同作業が通常でしたが、この作品はフィリッポ・リッピが一人で描き上げたことでも有名です。

フィリッポ・リッピが「聖母子と二人の天使」に込めた家族への愛

「聖母子と二人の天使」は、作品の注文主などの史料がないことから、1457年にフィリッポ・リッピとルクレツィアとのあいだに生まれたフィリッピーノという息子の誕生を喜んでフィリッポ・リッピが私的に描いたという説もあります。聖母のモデルはもちろんルクレツィア。窓際の椅子に腰掛けた聖母の物憂げな表情、真珠を絡めた当時の貴婦人の髪型、ドレープも美しい衣装の陰影などなど当時としては斬新な作品であり、リッピの代表作として「リッピーナ」とイタリアでは呼ばれています。
幼児イエスを支えているのは、母のマリアではなく二人の天使。聖母の物憂げな表情とは対照的な、いたずらっ子のような天使のほほえみが印象的です。

フィリッポ・リッピが作り上げたフィレンツェらしく豪奢で優美な画風は、ボッティチェッリや息子のフィリッピーノ・リッピなどの次の世代に受け継がれていくことになります。

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