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戦争に消えた悲劇の天才画家 日本的シュールレアリスム靉光(あいみつ)のまとめ

太平洋戦争に消えた悲劇の天才画家 靉光(あいみつ)の人生と残した作品についてまとめています。
ヨーロッパから始まったシュールレアリスムの影響を受けた作風は、非常に印象的で見るものの心をつかみます。
彼の人生と、数少ない貴重な靉光(あいみつ)の作品とその魅力に迫ります。

自分だけの画境を探し続けた変転の画家 靉光(あいみつ)

靉光(あいみつ)はむろん画号で、本名は石村日郎といいました。
1907年広島に生まれます。幼いころ生活苦から養子に出され、実の両親と離れて育ちました。
17歳のとき、画塾に入門。その後すぐ上京し、画業に熱中しはじめます。
数年後には池袋に移りました。当時池袋には新鋭画家たちが集まり、池袋モンパルナスと言われていました。

若き靉光は服装に全く構わず、腰に大きな置き時計をぶらさげていました。絵の具のついた手でかまわず髪に触るため、いつもまだらに染まった髪をしていたそうです。
また、画風が短期間で変わることで知られていました。ゴッホやルオーなどに短期間のうちにつぎつぎと傾倒してゆきながら、その時々で非常に優れた作品を残しています。
その時代の作品が、22歳のときの妹コミサを描いた絵「コミサ(洋傘による少女)」。
ルオーの影響を受けながら、独自の深い表現に達しているのがわかります。

このように早くから確かな才能を見せていた靉光ですが、本人は自分だけの画風が見つからないことに苦悩し続けていました。
溶かしたロウで描いてみたり、芽の出たジャガイモや魚の骨を集めてみたり、奇抜なこともやりながら自分の中の可能性を探り続けます。
そして、しだいにシュールレアリスムへと接近してゆきました。1939年、靉光の名を日本絵画史に永遠に残すだろう代表作「眼のある風景」が描かれます。

戦争が勃発すると、戦争画を描くことを拒んだ靉光は今までにまして極貧の生活を送るようになります。1944年、召集されて満州へ。戦場では生き残ったものの靉光は異邦で身体を壊し、1946年、ついに帰国できないまま亡くなりました。
その1年前、作品の多くが保管されていた広島に原爆が落ち、彼の作品もほとんどが失われました。こうして靉光は、わずかな作品だけが残る幻の画家になってしまったのです。

自分だけの模索でたどり着いた日本的シュールレアリスムの境地

まずは、絵を見てください。何が描いてあるのかわからない絵です。わからないのに、異様な迫力があります。
岩と一体化したような充血した眼を持つ何かは、全く正体不明なのに、昏い感情を秘めていることだけはひしひしと伝わってきます。
こんな絵は、それまで日本の絵画に存在したことがありませんでした。

1930年代欧州の最先端芸術運動、シュールレアリスムの名はすでに日本でもよく知られていましたし、福沢一郎がシュールレアリスム絵画を紹介し、靉光をはじめとした池袋モンパルナスの画家たちに衝撃を与えていました。ですから美術史の流れで見れば、この絵は日本シュールレアリスムの黎明期の絵画だ、と言われることになるでしょう。
ですが、絵としての性質は先輩たちとはまるで違います。
ここにあるのは、画家が自分だけの道を歩いてたどり着いた何かです。フランス直輸入の理論を取り入れて描いた福沢とは違う、日本の画家のオリジナルな方法論の絵なのです。

靉光が多彩な絵を描いた画家だったことはすでに述べましたが、戦争の足音が近づくにつれ、彼は人物や人が暮らす風景ではなく、静物や動物や昆虫を多くモチーフにするようになります。
お金がなくてモデルを雇うことも遠くに行くこともできないという事情もあったでしょう。が、それに加えて、靉光はこの頃から、ひとつの物をじいいーっ、と凝視し続けて、繰り返しその絵を描くということにこだわるようになります。
モチーフを丸ごと食い尽くしてしまうような、そういうやり方に靉光は自分だけの画境を作る道を求めたのでした。

この「眼のある風景」も、そういう過程から生まれた絵です。1936年頃から、靉光は上野動物園のライオンに執着するようになり、通いつめてライオンの絵を描き続けます。彼が描いたライオンは、颯爽としたところの全くない、暗がりにうずくまって何かに耐えているようなドロッとした姿です。
そして、ライオンを描き続けてたどり着いてしまったのが、もはやライオンでない何かになってしまった「眼のある風景」なのです。靉光は物を見つめて、見つめて、ついにその物の魂のような、真髄のようなものだけを描くところまで行ってしまったのでした。

この絵がシュールレアリスム絵画なのかどうか。それはどうでもいいのではないでしょうか。これがもとはライオンだったことも、全く知らなくていいでしょう。ただ、ここには圧倒されるような何かが描かれていて、それは私たちの心を揺さぶるのです。

自分自身を物と化した、靉光(あいみつ)最後の自画像

1944年、出征の直前に、靉光は三枚の自画像を立て続けに描きます。そのいずれもが傑作と言われていますが、最後に描いたのがこの「白衣の自画像」と呼ばれる作品です。

まるで岩壁のような胸を持つ男が、はるか虚空を見つめています(本物の靉光は痩せていてこんな身体はしてませんでした)。余計なものは一切ないのに、何か大きな意志のようなものを感じさせられる作品です。

それゆえにこの自画像は、戦争に行かされる靉光の抵抗の意志を描いた作品だ、というふうに一時期言われました。ですがそうではなかったことが、現在では研究の結果ほぼわかっています。靉光はまるで政治に関心がなく、出征も国民の義務だと当時の庶民と同じように考えていました。
では、この自画像にはいったいどんな創作意図が秘められているのでしょうか。

それはおそらく、「眼のある風景」と同じ意図ではないでしょうか。靉光はライオンを凝視し続けて、ついにライオンでない何かを描くところまで行きました。ここでも同じように、自分自身を「物」として凝視し続ける試みがなされているのです。極端に広い胸とゴツゴツした岩のような顔、そして極端に小さい眼、これらはみな、自分自身を彫像のレベルまで「物」として見ようとした結果なのだと思います。

この絵から私たちが感じる迫力とスケールは、そういう画家の、どこまでも絵画的な努力と覚悟から来ているものではないでしょうか。多難で貧乏で迷い多い人生を送った靉光は、生涯通じて絵描き以外の何者でもなく、感傷とも理屈とも無縁な「モノを描く画家」でした。

ひたすら自分だけの絵画を求めて七転八倒し続けた画家、靉光。その作品はほとんどが戦火に消えました。残されたわずかな作品を、私たちは大事に鑑賞してゆかなくてはならないと思います。

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